「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
執事はいつものように秘書にスーツケースを渡すと、主に深々と頭を下げた。
――今日も素敵ですよ、ご主人様っ!
主を見送るこの瞬間が、彼は好きだった。
どんな時も見ほれてしまうが、男の戦闘服であるスーツ姿の時の主が、やはり一番凛々しく見える。
精悍な美貌と、高い身長、そして厚い胸板を持つ主は、そこいらの筋肉自慢のモデルなどとは比べものにならぬほど、スーツがよく似合うのだ
内面の自信が、フェロモンとなってスーツから溢れ出す姿を、彼はうっとりと見つめていた――その時である。
タタタタッと何かが駆け抜けたかと思うと、ぱふんっと主に抱きついた。
「ルシガ~、行っちゃだめなの~」
それは一昨日、主が拾ってきた猫耳のついた少年だった。
――る……ルシガだとぉー?
執事は一瞬、気を失いそうになる。
主は、ファーストネームで呼ばれるのを極端に嫌っていた。
理由はわからないが、大学の卒業アルバムにさえ、彼のファーストネームは記載されていないのだ。
ニューヨークでは「彼のファーストネームを書いただけでも、その出版社は潰れる」と言われるほどで、フォーブス誌の企業家紹介欄にも、ファーストネームを外した『ローランド・A・デュフォール』と書かれるくらいだ。
それなのに、どこの馬の骨ともわからぬ少年が、彼の名前を口にしたのだ。
しかも、敬称もなしで。
頭に大きな三角の猫耳をつけ、半ズボンに作った穴から、ふさふさの尾を出しているくせに、無礼にもほどがある。
――この化け猫、何てことを言うんだ!
執事は反射的に、身構えた。
主の怒りは天を裂き、戦場に飛び交う砲弾のように、落ちてくるはずだった。
しかし、今朝は砲弾どころか、風邪一つ吹いてこない。
それどころか、鼻の下を伸ばした主は、猫の頭を優しく撫でているではないか。
――ご主人様? 今の、怒るところですよ?
「こらこら、我が儘を言うんじゃないぞ、アレックス」
「行っちゃだめなの~。ルシガ、いっしょにあそぶの~」
「仕事が終わったら、すぐに帰ってくるから。それまで、このおじさんと良い子にしていなさい」
――ご主人様!? どうして怒らないんですか? どうして?
優しい言葉をかけられたというのに、少年は頬を膨らませ、不満げな声をもらしている。
「ぶーっ」
――何が、「ぶーっ」だ、この化け猫ヤロウ! その風船みたいに膨らましたほっぺたを、ビンタでカチ割ってやろうか?
それでも主は、少年を甘やかすようになだめている。
少年が頷いたところで、主は安心したように振り返った。
そして、いつもの眼差しで執事に言う。
「おい、アレックスを頼んだぞ。今夜は早く帰る」
「……かしこまりました」
「ルシガ~、はやくね。やくそくなの~」
「ああ、約束だ」
そう言い残し出て行く主の姿を、執事は呆然と見送った。
できることならその場に突っ伏せて、泣きたかった。
主にあのような優しい眼差しで見られたことも、なだめるように甘やかされたことも、彼はただの一度もなかった。
デュフォール家に来て二十年。
その自分の立場を、この少年はいとも簡単に、いや、たった二晩で飛び越していったのだ。
それどころか、ファーストネームを呼ぶ権利を得た少年は、大女優や有名モデルにすら立つ事が出来なかった地位に、昇りつめたとも言える。
彼は歯ぎしりしたくなるのを、ぐっと堪えた。
――……子供だからだ。……だから、ご主人様は甘いんだ……。
そう考え、自分を納得させようとした。
しかし、そんな彼の脳裏に、あるパーティーでの出来事がよぎる。
通常、この家でおこなわれるパーティーに子供を呼ぶことはない。
だが、ある年、映画で賞を総なめにした子役が呼ばれたことがあった。
やって来た子役は、大人に甘やかされていたせいか、やりたい放題だった。
そのあまりの傍若無人さに、子役を調理場に呼び、その頭に拳骨をくらわせたのは主だ。
その時の『ゴンッ』と言う鈍い響きを、彼は今でも思い出すことが出来る。
調理場全体の凍った空気中、主が言ったのは「子供だからと言って、甘やかしてどうする。ろくな大人にならんぞ」と言う、言葉だった。
――……だ、だめだ。たとえ子供相手でも、手加減するようなご主人様じゃない……。
だとしたら答えは一つだ。
どこがどう良いのかはわからないが、主はこの少年を気に入っている。
それも普通の子供に対する思いではなく、何か特別な感情で。
その事実に気づいたとき、彼は絶望の縁に立たされたような気がした。
何年も想い続けた相手を、この少年が、鳶が油揚げをかっさらうように奪っていった……そんな気がしたのだ。
執事の思いも知らずに、少年が彼のスーツの裾を引っ張りながら、話しかけてきた。
「おじさん、あそぼー」
その一言に、彼の血管が切れた。
こめかみから血が噴き出すとは、このことである。
「私は、おじさんじゃない! 執事だ!」
「ひつじさん?」
「執事だ、執事!」
「ひつじさん、あそぼー」
――あったま悪いんじゃなのいか、この化け猫は?
ままならぬ恋に陥ったとき、人は理性を失う。
想い人を奪った相手が自分より優れている場合は、ただ悲しみに暮れるだけだが、相手が自分より劣っていたり、納得のいかない場合は、堪えようのない怒りがわいてくるものだ。
いわゆる『八つ当たり』は何も生むことはないが、そうせずにはいられない時が、人にはある。
そう、今の彼のように。
「おどきなさい。私には仕事があるんだ」
その感情を抑えるために、彼は少年をはね除け、その場を離れた。
各フロアーには、それぞれに専門のメイドがいて、いつ何時どんな来客があってもいいように、最高の状態が保たれていた。
しかし全ての部屋の最終チェックは、この銀髪の美しい執事がおこなうことになっている。
彼は、主のシーツに一本の皺も入っていないことを確認すると、バスルームへ入った。
大理石の床も、水槽の硝子も綺麗に磨かれ、水垢一つない。
しかしジャグジーの浴槽を覗き込んだ瞬間、彼は二日前の忌まわしい出来事を思い出した。
――ああ……ご主人様のばか。何でイチモツをおっ立てていらっしゃったんですか?
化け猫を抱え、こちらを向いた主の顔には、鼻血まで流れていた。
――いったい、何をしてたんですか? ああ~、もうっ! ご主人様の、ばかばか!子供相手に……しかも化け猫相手に、何考をえてるんですか! ああ……もう、ばかばかばかばか。
……そして、私のばか……。
悔しくてたまらないはずなのに、執事の大切な部分は、なぜか起き上がっている。
――……もう、起ってる場合じゃないのに……。
そう思いながらも、あの時の、主の立派なイチモツが目の前にチラついて離れない。
大きさ、形、色、艶、そして張りともに、彼の人生史上、最高の代物だった。
――……ああ。ご主人様……。
じゅんっと熱いものがこみ上げて、執事の喉が鳴った。
バスルームの柱によりかかると、そのままずるずるとしゃがみ込む。
硬くなったそれを服の上から握ると、より強い刺激を求め腰が浮いた。
幸い、ここはバスルーム。
汚れたら洗い流せばいい。
「はぁ……っ」
彼はファスナーを開け、起きあがったそれを取りだすと、ゆっくりと扱き始めた。
『……何をしてるんだ?』
『ご主人様っ! いつお戻りに……?』
『お前のことが気になってな。それよりも、お前……』
『み、見ないでください……恥ずかしい』
『ばかだな。こんなになるまで我慢していたなんて……』
『ああ……だ、……だめです』
『ここは嫌だとはいってないぞ。どうして欲しい?』
『そんなこと……』
『言ってごらん』
『ああ……』
『さぁ、欲しいモノを言ってごらん』
『あ……貴方の……貴方の……』
「ソーセージが、たべたいのー」
「そう。ソーセージが食べたい……って、ぎゃぁあああああああっ!」
大事なモノを握る彼の目の前に、少年が立っていた。
小首を傾げ、不思議そうな顔でこちらを見ている。
「ひつじさん、どうしたの?」
「なななな……何でもないっ!」
「ちんちんにぎって、なにをしてるの?」
「ぎゃぁあああああっ! ヤメロー! 言うなーっ!」
彼は立ち上がると、ズボンにモノを押し込むと、ファスナーを閉めた。
しかしあまりにも慌てていたのか、その皮を挟み込み、跳ね上がる。
「んっぎゃ~~~っ!」
股間を押さえて倒れ込むと、その後は声も出なかった。
それを見ていた少年は、床に座り込むと、執事を上から覗き込んだ。
「おしっこはトイレなの。おふろでしちゃだめなのー」
諭すような表情が、生意気千万である。
――こ、この、ノータリン猫がぁ~~~っ! 殺してやる、いつか殺してやるからなっ!
執事の瞳に、怒りの炎がメラメラと燃え上がった。
少年は何も悪くない。
ただ小腹が空いて、食べ物を求めに来ただけだ。
そんなことはわかっている。
しかし、どうしても許すことが出来なかった。
これを人は、片思いの八つ当たりと呼ぶ。
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