少年は夢の中にいた。
柔らかくしっとりとしたものに包まれ、彼の回りは白い光で満たされている。
その心地よさに、彼はこのまま眠り続けたいと思った。
目を覚ませば、果てしない闇の中に自分がいるような気がした。
酷く怖く、そして辛いことが待っている――そんな恐怖だ。
最後に見たのは濃いブルーの瞳。
切れ長で力強く……そして暖かな眼差しだった。
『俺が守る。この命にかけても、おまえを守るから!』
その言葉を思い出しただけで、胸に暖かいものが流れた。
そして羽が生えたように軽い――その感覚が心地よかった。
少年にはその気持ちが何であるのかわからない。
安心。
それは彼が今まで感じたことのない感情だった。
眠りを妨げるように、遠くで人の話し声が聞こえる。
「……男だと?」
「男ともうしましょうか、雄ともうしましょうか……」
「ご主人様、ごらんください。ほら、なにやらついております。申し訳程度のピンクのものが」
「男か。……そうか、男か……。う~ん、男か……」
「……男ではなく、雄でしょう。猫耳ですし」
「体温が高いのが気になりますが、聴診器と触診では異常がございません。ただ獣医の意見も聞かれた方がよろしいかと。耳も汚れているようですしな」
「……男か……う~ん」
「とにかく警察に届けましょう」
「……男……男なのか」
「いえ、国家安全保障局の方が良いかもしれません。怪しげな生き物ですからね」
「男……男……。……って、国家安全保障局はいかんぞ! 警察もいかん!」
だんだん強くなる声に、少年は眉根を寄せた。
起きたくないのに眠りから引き離されそうで怖い。
「おや、聞いてらしたのですか。ではどうするおつもりで?」
「とにかく体調を整えるのが先だ」
「まさか、これをお飼いになるおつもりでは……?」
「……しばらくここに置く」
「それはなりません。このような得体の知れぬものを、身近に置かれるなんて!」
頭の上で男達が言い争いをしているようだった。
現実に戻りたくない彼は、眠りの中へ逃げようとした。
「貴様、俺に指図する気か?」
「いえ……そのようなことは……ですが、素性の知れぬ者を身近に置かれるのには反対です。執事としてご主人様の身に何かがあっては……」
「だまれ!」
「いいえ、だまりません。エイリアンとも、猫型ロボットともわからぬ者なのですよ? ライバル企業の回し者や、悪魔かも知れない。そんな化け物を身近に置くだなんて……」
「うるさい! これ以上俺に口答えをするなら、この家から出て行け!」
その怒声に少年は眉をしかめた。
躰を引っ張られような感覚で、現実に引き戻されそうになる。
その時彼の腹が小さく鳴った。
その瞬間、自分がひどく空腹であることを思いだした。
最後に食事をしたのは、いつだっただろうか?
一度思い出すと、腹はきゅるきゅると鳴りだし、我慢が出来なくなる。
なんでもいいから食べ物で腹を満たしたかった。
トーストしたパンに目玉焼き、そして何よりも大好きなソーセージ、それらを思い出すと、腹がぎゅるぎゅる鳴る。
そして騒音と空腹、その二つが少年を現実の世界へと引き戻していった。
「うぅ……ん」
少年が苦しげに躰を捻ると、声が止まり、その頬に暖かいものが触れた。
「大丈夫か?」
その優しい響きに、少年はすぐにあの時の男の声だとわかった。
ゆっくり開けた彼の目に映ったのは……ソーセージ。
そう、ソーセージ。ソーセージ。
――ソーセージ!
少年は我を忘れ、ソーセージにかぶりついた。
がぶりっ。
「んっぎゃ~~~っ!」
「ぎゃー、化け物が噛んだ! ご主人様を噛んだ!」
牙に何か硬いものがあたり、噛み切ろうにも噛み切れない。
彼はより深く牙を食い込ませた。
――ほねつきソーセージ? なんだか血のにおいがするよ?
「ご主人様を離せ、この化け猫!」
「心配ない……だ、大丈夫だ」
「しかし血が! 流血してますよ、ご主人様っ!」
「おお、噛んどる、噛んどる。わっはっは、元気があるようで安心したぞ」
「ご主人様、お顔が真っ青です」
「ははははっ。かまわん、かまわん。あ、……いかん、なんだかフラフラするぞ」
「ああ~っ、ご主人さまぁ~~~っ!」
ねぼけ眼を擦り少年が目にしたのは、人の手だった。
目の前にある手にかぶりついていることに気づき、彼は慌てて口を離した。
ぷっしゅーっ。
男の親指から噴水のように血が噴き出した。
「ぎゃ~っ、ご主人様~っ!」
銀色の髪をした美しい男性が、悲鳴を上げて慌てふためいている。
「ご……ごめんなさい。ぼく……おなかがすいてたの」
「お、おまえ。やはり、ご主人様を食べる気だったんだな!」
「ちがうの……」
「今すぐ国防省に連絡して、おまえを引き取ってもらう!」
「こくぼうしょう?」
「おまえのような化け物は、エリア51にでも行って、機密扱いで実験台にされればいいんだ!」
少年は、男の言葉の全てを理解することができなかった。
ただ化け物と言われたこと、そしてどこか怖いところに連れて行かれるのかと思うと、悲しくなった。
「ごめんなさい。ゆるして……」
「いいや、許さない。その耳も、しっぽも、目玉も、内臓も、みんなバラバラにされて標本になるがいい」
標本と言う言葉は知らなかったが、躰をバラバラにされるのはわかる。
少年の躰は恐怖で小刻みに震えた。
カチカチと歯が鳴る。
しかし逃げ出したくても、躰がなまりのように動かなかった。
謝っても、この剣幕では許してもらえそうにない――そう思うと、涙が堰を切ったように溢れだした。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
か細い声で何度も謝るが、腕を組んだままの男は険しい顔で彼を見ている。
その時だった。
「もうよさないか」
少し離れたところから、別の男の声が聞こえた。
――ソーセージさん。
さきほど噛んだ指の持ち主は、白衣の男性から、その指に包帯を巻いてもらっていた。
その声、そして濃いブルーの瞳に、少年はその男が最後にあったあの人であるとわかった。
「ソーセージさん、たすけて!」
少年のその言葉に、男は巻き終わった包帯をもう片方の指でなぞりながら、ゆっくりと近づいてきた。
「かわいそうに、怖がっているじゃないか」
「なに言ってるんですか。指を食べられそうになったんですよ?」
「腹が減ってるんだろう。何か作ってやれ」
「しかし……」
男の鋭い眼差しに、銀色の髪の持ち主はそれ以上しゃべるのをやめた。
男は、少年の寝ているベッドの片隅に腰を下ろすと、躰を傾け、少年に近づいてきた。
そして優しい口調で問いかける
「名前は?」
「……」
「どうした? なにも怖がる必要はない。名前と住所を教えてくれ。ご両親に連絡せねばならん」
「……わからない」
「えっ?」
「なにも……わからないの」
聞いた男も驚いたが、言葉を発した少年の方がもっと驚いていた。
自分が何者なのか、どこから来たのか、なにひとつ思い出せないのだ。
「一過性健忘症かもしれませんな」
白衣の男性の重みのある言葉に、男は確かめるように言った。
「記憶喪失のことか?」
「多分そうかと。詳しく調べてみないとわかりませんが」
「……そうか」
「入院の準備をいたしましょう」
ぽふっと頭に手を置かれ、少年の耳がぴくぴくと動いた。
大きく暖かなその手は心地よく、優しく撫でられると、彼は自分が何者であるのかなどどうでもいいような気がした。
それに、思い出には何か黒くて怖い者が潜んでいるような気がする。
記憶をもどし帰らねばならない現実より、今感じるこの暖かな感情の中にいたかった。
男は片方の手を顎に当てて、何かを考えているようだ。
少年が不安げな顔で見上げると、男の瞳と目が合った。
あの時の優しい瞳だ。
男がおもむろに口を開いた。
「いや。その必要はない」
「しかし……」
「この子は記憶が戻るまでこの家に置く。探す者がいれば捜索願が出されるだろう。それにこの耳やしっぽをかぎつけて、政府機関やマスコミが動いたら面倒だ。ここなら誰の目にも触れさせないでおける」
男は自分の考えに納得するように何度か頷いた。
「よーし、お前の名前を決めるぞ! 一緒に暮らすには名前が必要だからな。お前の名前は、そうだな……アレキサンダーだ!」
「あれきさんだー?」
「どうだ? 強そうな良い名だろう? これからお前をアレックスと呼ぶことにするぞ」
「あれっくす……」
「わかったか、アレックス?」
少年は男の目をじっと見た。
そして思った。
この男と一緒にいたいと。
彼は意を決したように言った。
「うん。ぼく、あれっくす!」
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