ロンドンの最終ロケは、大英図書館の休館日に、そのドーム棟を借り切って行われた。
天使達が地上で落ち合う場所に設定されたドーム棟の閲覧室は、淡いブルーと白の半円状の屋根に、窓がずらりと並ぶ素晴らしく美しい建物だった。
僕らは天使が人間になった後、仲間を探し図書館を彷徨うという、最後のロケシーンを撮っていた。
この撮影が終わっても、アメリカに帰れば、残りのシーンをスタジオの中で撮らなければならなかったが、一つの大きな区切りを迎えようとしていた。
天使である僕が恋する相手は、男だ。
天使は中性だから、男女どちらが演っても良いのだが、男の俳優同士が恋人になるのが、この映画のセールスポイントの一つであるらしい。
監督自身もレズビアンとして有名な人で、天使の堕落と、禁断の恋をだぶらせて描いているようだ。
壮大なドームの下に、天使と人間役の役者達が点在する中を、僕は見えなくなってしまった仲間を捜し求めて、図書館を走り廻った。
何度もカットが掛かり、再度フィルムが回り始める。
限られた時間で、クレーンを使っての大がかりな撮影は、緊張の連続だったが、僕は必死で演技をした。
それが僕がルシガに出来る、唯一の事だったからだ。
僕は、彼に認めて欲しかった。
それで愛を得られるかどうかは解らなかったが、少しでも彼に近い場所に立ちたかった。
あの夜以来、例の青年を見ることは二度となかった。
しかしルシガは見えない所で、彼に会っているのかもしれない―――そんな恐れにも似た焦燥感が、僕をより熱心にさせていた。
「カートッ!」という監督の声に、一瞬沈黙が走る。
そして「いいよ。オッケー、終了!」の声と共に、館内に歓声が沸き起こった。
ルシガに目を向けると、満足そうに頷いている。
僕は撮影が終わった事よりも、彼が喜んでくれた事が嬉しかった。
その夜は、ロケの終了を祝ったカクテルパーティーが、制作会社主催で開かれていた。
僕はロンドンのクルー達と、最後の挨拶を交わした。
気さくなスタッフとの会話は、上流階級の人々とのそれとは違い気楽だったが、気がつけば僕はルシガの姿を追っていた。
その時、急に叫び声が聞こえた。
「アレックス! アレックス!」
僕の名前を呼んでいたのは、四十代の女性だった。
いわゆる熱心なファンというやつだろうか……僕は何度かロケ地で、彼女の姿を見ていた。
彼女は会場の警備員に捕まり、連れ出されようとしていた。
「アレックス! 私よ!」
デビュー前からファンというのは、ありがたい事なのだろうが、僕には彼女が理解できなかった。
僕の何も知らず、演技すら見たことがないのに、どうしてそれほど熱心になれるのだろう。
きっとこの会場にも、警備の目を盗んで、忍び込んだに違いなかった。
僕は気づかないふりをして、人混みに隠れた。
彼女と接するのは、ルシガから禁じられていたからだ。
彼女は僕の代わりに、ルシガを呼びつけた。
「ルシガ! アレックスに会わせて! お願い!」
ルシガは眉をしかめ、スタッフに追い出すように指示をする。
「アレックス! アレックス!」
泣き叫びながら僕を呼ぶヒステリックな声に、僕は背筋がぞっとした。
挨拶が終わり、スタッフに酒がまわってくると、ルシガはパーティー会場を出て行こうとしていた。
「お前はゆっくり楽しめばいい」と言う彼に「僕も帰りたい」と言うと、いつになく上機嫌のルシガは、僕の意見を聞き入れてくれた。
そればかりか、エレベーターに乗ると、彼は僕の髪をくしゃりと掴み「よく頑張ったな」と言ってくれた。
彼から聞く初めての労いの言葉に、僕は涙が出そうになった。
僕はこの言葉を聞くために、今まで頑張ってきたのかもしれない。
エレベーターが開くと、僕は彼の後ろを歩き、出口に向かった。
ベルボーイに扉を開けてもらい、外に出ると、車が目の前に止められていた。
その車に向かって歩き出した時、僕らは再びあの声を聞いた。
「アレックス! 私よ、私!」
先程の女がホテルの外で、僕を待っていたのだ。
「アレックス、車に乗れ」
ルシガはそう言うと、僕の前に立ち塞がった。
「ルシガ、邪魔しないで。私のアレックスに会わせて!」
「だめだ」
「どうしていつも邪魔をするの? 貴方さえ、貴方さえいなければ……」
女はそう言うと、ハンドバッグから何か光る物を取り出した。青白い月に浮かび上がったそれは、ナイフのようだった。
ルシガが危ない! ―――そう思った瞬間、僕の身体が動いていた。
「アレーックス!」
強い衝撃を背中に受け、何が起こったか解らぬまま、叫ぶルシガの腕に抱かれながら、僕の意識は遠退いていった。
遠くでピーピーピーという、無機質な機械音が小さく聞こえていた。
僕はどうやら眠っているらしい。重い瞼を無理矢理開けると、視界が白くぼやけていた。
頭がはっきりとせず、どこにいるのか分からなかった。
「アレックス、気がついたか?」
聞き慣れた声に視線をずらすと、ぼやけた視界からルシガの姿が現れた。
「……んっ……つっ!」
返事をしながら寝返りを打とうとすると、自分が俯せに寝かされていることに気がつく。
身体を少し動かしただけで、右の背中が焼けるように痛かった。
「動くな。私が分かるか、アレックス?」
「……はい」
周りを見ると、そこが病院のベッドであることが分かった。
ふと目に映った自分の手が、ルシガの手に包まれているのに気づき、僕はその優しい温もりに、ほっと息をついた。
「僕……刺されたんだ」
「ああ。私の代わりにな……」
ルシガはそう言いながら、片方の手で自分の頭を押さえている。
「お前を守るつもりだったのに……すまない」
意外なルシガの言葉に、僕は彼を見た。
「あの女は以前から、自分はお前の恋人だ、お前に会わせろと、何度も言ってきていたストーカーだ。私がもっと気をつけていれば、こんな事にはならなかった……」
俯いたルシガの顔が、苦しげに見えた。
「……僕は……平気だから」
そう言って彼に手を伸そうとしたが、届かなかった。
僕の手が空しく空を描いた時、ルシガが言った。
「お前はどうしてそうなんだ? 私が憎くないのか? 私が死ねば、お前は自由になれるのに……」
「ルシガが……無事で良かった……」
「どうしてなんだ? どうしてお前は汚れない? 汚しても、汚しても、綺麗なままなのは何故なんだ?」
「……意味が……分からない」
「私はこんなに汚れているのに……お前は清らかなままだ。私はお前を金で買い、嬲《なぶ》りものにしてきたというのに……」
そういうルシガの表情は悲しげで、今にも消えてしまいそうだった。
僕はそんな彼を、地上に引き留めるかのように口を開いた。
「愛してる……」
今まで言えなかった言葉が、素直に口から出てきた。
「……愛してるだと? ……何も知らないくせに。お前を手に入れるために、父親に借金をさせるようにしたのは私だ!」
「……」
「マフィアを使って、全て私が仕組んだ」
「……どうして?」
「お前を映画に使いたかったからだ」
「……それだけ?」
「……」
ルシガの表情に戸惑いが見えた。
「それだけなの?」
「ああ、そうだ!」
「だって、僕を守ってくれたじゃない?」
「……お前は私の商品だからだ!」
「違うよ……ルシガ。もう自分を悪く言わないで……」
いくら世間知らずの僕でも、そんな面倒な手段をとるより、ただの役者として雇った方が簡単なことは分かる。
「お前は何も知らないんだ。私は汚い男だ。そうやって上り詰めてきた」
「ルシガ……それでも僕は愛してる」
「……?」
「どんなルシガも愛してる」
もう一度確認するように、僕は言った。
「ハッ。……ハハハハ……」
彼は声を立てて笑った。それはまるで泣いているようにも見えた。
それから暫く黙って何かを考えていたかと思うと、彼は重い口を開いた。
「……ま ったく、お前って奴は……」
そして一つ大きな溜め息をついて言った。
「負けたよ……アレックス」
そう言うと彼は僕の髪を撫で、頬に触れるか触れないかの優しいキスをしてくれた。
「……私もお前を愛している」
予想もしなかった彼の言葉に、僕の心が震えた。
涙が一筋零れたかと思うと、僕は安心したのか、意識が遠退いていくのが分かった。
それから退院までの間、ルシガは少しずつ、僕にいろいろなことを教えてくれた。
ストーカーの女性から、ずっと守っていてくれていたこと。
僕を買いたがったアサードに、あの青年を紹介したこと。
そして彼の性癖が、幼少時代の経験から来ていること。
彼がこの世界に、名を馳せるまでにした数々のことを。
傷が癒えるまでの二週間は、互いを理解するには十分な時間だった。
退院すると、僕らは互いを貪るように求め合った。ルシガは僕の傷を気遣いながらも、激しく愛してくれた。
「あっ……あっ……あぁあ……」
下から突き上げられると、僕の身体に悦楽が駆け抜けた。
激しく揺すられ、欲望が解き放たれた後、ルシガは僕を優しく抱きしめこう言った。
「お前と始めて会った時、見つけたと思った」
「……何を?」
「私の天使を見つけたと……」
窓の外には、この季節には珍しく、青空が広がっていた。
穏やかに差し込む光は、天使の羽のように僕らを優しく包み込んでいた。
了
BACK TOP 参加しています。よろしかったら、ポチお願いします。
↓
にほんブログ村
Information