ここはロンドンのダウンタウンにある、小さなバレエスクール。
その稽古場に張られたポスターを見て、アレックスは「嘘だろう?」と、愕然とした。
幻の名作と言われた『薔薇姫とドラゴンの騎士』が三十年ぶりに公演されるというのだ。
ツアーはそのバレエ団の本拠地であるボストンから始まり、全米を回った後ヨーロッパに来て、最後はカーネギーホールで千秋楽を迎えると言う、豪華なものだった。
何より彼を驚かせたのは、その主役である薔薇姫の一般公募がある事だった。
劇団員と一般公募員を競わせて、最終的に主役を決めるらしい。
アレックスの胸は高鳴った。
しかし同時に、落胆した。
プリマドンナをやれるのは女なのだ。
男であるアレックスに、そのチャンスはなかった。
稽古を終わり、地下鉄に乗りながらも、彼の頭にはあのポスターのことしかなかった。
アレックスがバレエを始めたきっかけが、TVで見た古い映像の『薔薇姫とドラゴンの騎士』だった。
ロマンチックチュチュを着て、軽やかに踊る薔薇姫を見た時「自分もこれを踊りたい!」と思い、早朝の新聞配達で月謝を捻出し、バレエスクールに通い始めたのだ。
しかしバレエを習い始めてから、男はプリマドンナをやれないことや、『薔薇姫とドラゴンの騎士』の版権を持つローズ・タカトウが、高齢になり踊れなくなったものの、その版権を手離さない為、公演が出来ないことを知ったのだ。
それでも踊りが好きなので、二十三歳になった今でも踊り続けていた。
実際彼は、素晴らしい踊り手だった。
だが数々のコンクールに出ても、そのスタイルから上位に入賞出来ないでいた。
プリンシバルに必要とされる、力強さがないのだ。
彼のお手本はあくまでも薔薇姫のローズだったので、その踊りが軽やかで人間のようではない。
唯一コミックバレエをテーマにした、男性だけのバレエ団から誘いがあったが、いくら高い技術が必要とされても、そこに入る気はせず、彼はこの年でどこのバレエ団にも所属していなかった。
地下鉄の駅を出てアパートメントに戻ると、アレックスはパソコンを立ち上げ、ローズの『薔薇姫とドラゴンの騎士』を再生した。
小さな画面に、軽やかに踊る薔薇姫が映る。
「ああ……やりたいなぁ……女だけがプリマドンナになれるんてずるいよ」
悲しい気持ちで画面を見ていると、同居している妹が帰って来た。
「アレックス、また見てるの?」
「うん。……『薔薇姫とドラゴンの騎士』の公演があるんだ」
「ええっ? ローズが他の人にやらせないって、言ってなかったっけ?」
「それが、一般にも薔薇姫を公募するらしいんだ」
「そうなんだ」
「いいよなぁ……女だったら応募できるのにな」
「すればいいじゃない!」
「えっ?」
妹はソバカスだらけの顔で、クシャッと笑顔を作ると、言った。
「だって、アレックスはあたしより美人だもん」
「何言ってるんだよ、アン。性転換とか、するかよ!」
「そのままでいいじゃない」
「えっ?」
アンは大きな姿見を持って来ると、兄を立たせてその鏡を見るように言った。
「ほら、この綺麗なブロンドにブルーアイ。肌もきれいだし、髭だってほとんどないじゃない」
「だって身長が176cmもあるし……胸だってないし」
「あたしだって174cmあるし、胸がないわよ?」
アンはアレックスの隣に並んで言った。
「この2人を見てどちらが女だ? って、訊かれたら、大抵の人はアレックスって言うわよ」
アレックスは困った顔をした。
確かに女に間違えらたことは、一度ならずあった。
赤毛で茶色の瞳の妹と逆だったら良かったのにと、両親から何度言われたかわからない。
雑誌モデルのスカウトに「クールビューティ」と言われたこともある、美貌の持ち主なのだ。
「ねえ、やってみれば?」
「やるって?」
「女と偽って、応募するの!」
「……」
「ダメもとでやってみればいいじゃない。一生に一度のチャンスだよ?」
「そんな……」と言いながら、やってみようかと思う、自分がいた。
アンの言うとおり、一生に一度のチャンスかもしれないのだから……。
踊りの録画DVDと、応募書類を送り返答を待つ間、アレックスはアンから女としてのレッスンを受けた。
メイクの仕方や、話し方や、考え方、そして女らしい仕草を、時間があれば練習した。
女性用レオタードは身体に合わないので、服飾の勉強をしているアンが手作りしてくれた。
出来るだけ股間を目立たせない生地を使った上に、スカートを付け、肩幅を感じさせないようにフレンチスリーブにした。
胸元は高さのないハイネックで、胸筋をごまかした。
これに腰布を巻けば、男の部分はなんとか隠せそうだった。
そんなある日、ボストンのバレエ団から封書が届いた。
アレックスはドキドキしながら封を切り、中の書類を見た。
「……どうだった?」
アンが心配げに訊ねた。
「……やだ……」
アレックスの目から、涙がポロポロと零れた。
アンが慰めるように言う。
「次にきっと、何かチャンスがあるわよ」
「違うのっ! 合格よっ!」
レッスンの成果もあり、立派な女言葉でアレックスは答えた。
「きゃぁあああああああっ!」
抱き合って喜んだ1週間後、アレックスは妹のアンに送られて、ボストンの地に降り立っていた。
二次審査当日。
アレックスは、ローズバレエ団の入り口の前に立っていた。
背筋のすっと伸びた美女達が、中に入っていく。
「ふぅ……」
アレックスは小さく息をすると、扉を開けて中に入った。
エントランスには受付があり、名簿には90名もの名前が羅列されていた。
1日に3回に分けて審査があるようで、アレックスの名前は午後一番のBブロックにあった。
受付を済ませると、着替えることになるが、アレックスは更衣室に行かず、トイレに行き着替える。
狭い個室で着替えを済ませ出ると、男と鉢合わせした。
『しまった!』
いつもの習慣で、男子トイレを使ってしまったのだ。
「あっ。すみません! 間違えてしまいました!」
と、男の顔を見ると、銀髪に印象的な紫色の目をした美形に、ムキムキ筋肉に見覚えがあった。
「あっ! 貴方はバイオレット!」
ローズ劇団のナンバー2ダンサーの出現に、アレックスは驚いた。
「これは美しい姫君。我が名をご存じとは光栄です」
そう言うとアレックスの手を取り、その甲にキスをした。
「ぎゃあああああっ!」
驚きのあまり声を上げるアレックスに、ヴァイオレットは
「これは純粋な姫君を驚かせてしまったようだ。無理もない。私の様な美貌の男に、いきなりキスをされて戸惑うのは。では、用事があるので、失礼」
と言うと、個室へ入って行った。
『何? 何なの? ここはトイレよ?』
アレックスはヴァイオレットの、あまりのマイペースなナルシストぶりに驚いた。
『ダンサー名鑑に、美形で優雅な踊るをする元貴族。でもバカ。ってい書いていたけど、本当だったんだわ……』
あまりの衝撃に、アレックス緊張は一気にほどけた。
集合の30分前に練習場へ行くと、そこには思い思いに練習する人の姿でいっぱいだった。
アレックスが仲に入ると、一斉に視線が集中した。
一瞬にして値定めするように、全身を穴があくほど見つめられる。
所々で、ひそひそと話し声が聞こえた。
「背が高過ぎない?」
「でも美人よ」
「手足は長いわね」
「ちょっと骨太よね」
『うっわー! わざと聞こえるように話してる……女同士の戦いって、怖いわ……』
アレックスは、居た堪れなくなった。
その時、1人の女性から声を掛けられた。
「ここのバーが開いてますよ」
見るとそのバレエ団の団長の妹、ジェイド・タカトウがそこに立っていた。
黒髪にエメラルドの様な瞳が美しい上に、どうやら心まで美しい美女である。
「あ……ありがとう」
「イギリスから来られた、アレックス・バジルさんですよね?」
「どうしてそれを?」
「応募されたDVDを、見させていただきましたから」
今度の公演で主役をするのは彼女だと思っていたのに、ジェイドは何故か選考から外されていた。
「あの……失礼な質問かもしれませんが……どうして貴女が主役じゃないんですか?」
「団長から、親の七光りで主役をするのはいかんと言われて……私もそうだと思いましたし」
「でも貴女が、90名に入らないなんておかしいわ!」
アレックスは、その理不尽さを我慢できずに言った。
「ふふふ……」
「? 何が可笑しいの?」
「だって私が出ないことでホッとしてる人もいるって言うのに……貴女、変わってますね」
「だって……」
「私にはまだこの役は早いですから。あと3年経ったら、主役が出来るように頑張るつもりす」
「頑張ってね!」
「ふふふ。本当に変」
その時「そこ、何をしている? ここはおしゃべりの場じゃないぞ。やる気がないなら出て行け!」と、荒々しい声が聞こえた。
見ると長身の男が、苛立った表情でこちらを見ていた。
男は身長が190cm以上あり、長い黒髪を一つにまとめ、濃紺の瞳の切れ長の美しい瞳に、高い鼻、形の良い唇がバランス良く配置された美形だった。
彼を見た瞬間、アレックスはその心臓を鷲掴みにされた気がした。
心臓のドキドキが止まらない。
「すみません、団長。私が声をかけたんです」
ジェイドがそう言うと
「邪魔をするんじゃない!」
あくまで厳しい返事が返ってきた。
『あの人が、団長……ルシガ・タカトウ……』
写真嫌いのルシガは、名鑑にすらその写真を載せていない。
厳しいルシガの横顔を見つめながら、アレックスは自分の頬が熱くなるのを感じた。
『どうしたのかしら。……なんだか変……』
アレックスがそれを恋と知るまで、たいして時間はかからなかった。
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