二次審査は十二時から、その練習場で始まった。
31番から順に規定演技である、『白鳥の湖』の白鳥姫と王子が恋に落ちるシーンと、フリーの演技をする。
アレックスの順番は37番だったので、他の受験者と一緒に練習場の床に座って、その演技を見ていた。
団長のルシガは演技者の正面にテーブルを置き、何名かの審査員の中央に座っていた。
審査員席の一番左端には、先ほどトイレで会ったヴァイオレットも座っている。
アレックスはライバルの演技を見なければならないのに、気がつけばルシガの横顔に見入っていた。
黒のクールネックを着て、厳しい眼差しで踊りを審査する姿は、うっとりするほど凛々しかった。
時折隣の女性審査員に耳打ちする姿を見ると、それが審査の話であると知りながらも、胸が痛んだ。
『やだ……私、恋をしている……』
この感情を男性に感じるのは、アレックスにとって初めての経験だった。
男に一目惚れしてしまった事に、戸惑っていた。
いや……一目ぼれと言うには少し違うかもしれない。
彼の踊りは映像で何度も見ていた。
その長身を生かしたダイナミックな踊りは、素晴らしい。
そしてドラゴンの騎士を彼がやると知り、応募する気が俄然強くなったのも事実だ。
背の高い自分がプリマドンナをやれるとしたら、その相手はルシガ以外に考えられなかったのだ。
その本人を真直で見て、アレックスは、ぼーっとなっていた。
「……番……37番は、いないのか?」
ルシガが苛ついたように、会場を見渡している。
誰か欠席があったのだろうか……と思った直後、冷や汗が出た。
「あっ! はい! ここにいます!」
ルシガに見とれている間に、どうやら順番が来てしまったようだ。
気がつけば、他人の演技はほとんど見てなかった。
「……また、お前か?」
ルシガの瞳が厳しく光る。
アレックスは急いで練習場の中央に立つと、自己紹介を始めた。
「37番。アレックス・バジル。イギリスから来ました」
「……何故、髪が短い?」
バレリーナは、シニヨンが作れる長髪が基本だ。
だが応募を決めてから、髪を伸ばし始めたアレックスは短髪だった。
しかしその返事は用意していた。
「薔薇姫は舞台が始まってすぐに、髪を切られてしまいます。だから切りました」
「ふん。まだ役に決まってないのにか?」
「はい!」
ルシガはアレックスを凝視すると、一瞬考え、ヴァイオレットに声をかけた。
「ゴンザレス、相手をしてやってくれ」
会場内がざわめいた。
「ゴンザレスじゃない! 我が名はヴァイオレットだ!」
「本名はゴンザレスじゃないか」
「ゴンザレスと呼ぶな!」
「時間がない、ゴンザレス。この女の身長と体重を支えるのは、ピートでは無理だ」
会場内に笑いが起きる。
バレエ団ナンバー2の指名理由が、体格だとはバレリーナにあるまじき事だった。
アレックスの顔は真っ赤になり、穴があったら入りたくなった。
バレリーナの身長は高くても170cm台前半だ。
176cmのアレックスは明らかに大きい。
実際、身長と体重で弾かれると思った書類審査を、通ったのが奇跡のようなものだった。
「ふん。私の協力を必要とする姫がいるのなら、仕方あるまい」
「頼んだぞ、ゴンザレス」
「ゴンザレスと呼ぶなと、言っているだろうがっ!」
アーティスト名ヴァイオレットこと、本名ゴンザレスは怒りながらもアレックスに近付いてきた。
『本名のゴンザレスと呼ばれると怒るって、ダンサー名鑑に書いてあったけど……本当だったんだわ』
ヴァイオレットは、アレックスの隣に来ると「おお、貴女は先程お会いした、美しき姫君!」と言うと、その手の甲にキスをした。
会場が再びざわめく。
そして彼は片膝を床につけ、求愛のポーズをすると「貴方の為に、最高のパートナーとなりましょう。いざ、踊らん。ミュージック、スタート!」と、いきなり開始を宣言してしまった。
こういう場合、スタートは受験者であるアレックスが出すはずだが、このバカはどこまでもマイペースらしい。
しかし、このヴァイオレットの出現が、アレックスの緊張を解すことになったのだった。
踊りは王子が白鳥姫を見染めたところから始まる。
恥じらい逃げる姫を、王子が追う。
途中音楽が端折られ、互いに愛し合い、愛を確かめ合うように舞うシーンになる。
個人部分は、その長い手足を効果的に使い上手くいった。
しかしペアーの演技になると、今までイギリスでの練習で、コーチに相手をしてもらっただけのアレックスは不利だった。
それでもヴァイオレットの補助の旨さもあって、なんとかこなせたが、見せ場のリフトは体験がなかった。
『どうしよう……ダイエットはしたけど、58kgあるし……』
しかし『馬鹿力』と言う言葉が、『バカは力が強い』から来ているのかと誤解してしまうほど、ヴァイオレットは軽々とアレックスを持ちあげたのだ。
その初めての感覚に、アレックスは『まるで宙を飛んでいるみたい』と、夢見心地になった。
しかしアレックスには解かっていた。
どんなにうまくヴァイオレットが合わせてくれたとしても、プロの目が見たらアレックスにペア演技の経験がないのは一目でわかるはずだ。
『これはフリー演技で挽回しなくっちゃ!』
演技が終わると、アレックスはフリーの演目名を言った。
「『薔薇姫とドラゴンの騎士』の薔薇姫の恋のシーンを踊ります!」
会場が三度ざわめいた。
薔薇姫の恋のシーンは前半の見せ場で、ドラゴンの騎士に片思いをした姫が、そのときめきを踊りで表現するシーンだ。
黒鳥の三十二回転をはるかに凌ぐ四十八回転と、軽やかな高いジャンプの他に、高度な技術が満載の難しい演目である。
アレックスの言葉に、ルシガの眉が上がった。
「私の目の前で、それを踊るとは……よほどの自信家か、愚か者だな」
「一番好きな演目なんです! これを踊りたくてバレエを始めたんです!」
「……音楽を用意しろ」
アレックスは思った。
例え最終審査まで残れなくても、ルシガの前で自分の一番好きな踊りを踊れたら、幸せだ。
音楽が始まる。
最初は戸惑い、姫は部屋の中を駆け回る。
そして自分が恋をしていることに気付くと、激しい踊りが繰り広げられる。
踊りはダイナミックなのに、恋の高揚感を出す為に、妖精のように体重を感じさせない踊り方をしなければならない。
アレックスは心の全てを、さらけ出すようにして踊った。
ルシガ先生が好き!
恋に理由なんてないわ。
時間も関係ない。
ああ……この気持ちは誰にも止められない!
アレックスの心情は、薔薇姫のそれと重なり、ここまでは、自分でも満足がいくように踊れた気がした。
問題は最後の締めの、四十八回転である。
アレックスはこの回転を何度も練習した。
回転をしながら部屋中を回るので、軸を維持するのが大変だった。
何度も何度も練習して8割は成功したが、残りの2割は失敗した。
それ故に、この演目を演じるのは彼にとって賭けだったのだ。
回転が始まると、会場中が回転を数えているのがわかった。
二十九、三十……だんだん目が回って来る。
……三十六、三十七、三十八……気が遠くなってきた。
……四十三、四十四、四十五……と回ったところで軸がずれた。
それを整えようと足に無理な力を入れたら、逆にバランスを崩しこけてしまった。
「あっ!」
会場内に何とも言えない空気が流れる。
成功を目前にした失敗への残念さと、安堵感……。
「うっ!」
床に倒れたアレックスの目に、涙が光った。
それを見たルシガの、厳しい声が響く。
「泣くのなら外へ出ろ!」
その言葉を聞いた瞬間『もうだめだ!』と、思った。
アレックスは荷物も置いたまま、練習場から走り出した。
翌日の朝。
アレックスは冷やしたスプーンで、その目の腫れを取っていた。
昨夜は回転の失敗と、恋の終わりに、涙が枯れるまで泣き明かした。
審査結果は十時に張り出される予定だった。
行っても意味がないことはわかっていたが、荷物を受け取らなければならなかった。
昨夜、止まっているホテルにそれを取りに来るよう、事務局から連絡があったからだった。
目の腫れを隠すために伊達眼鏡をかけると、アレックスは出かけた。
女装を続ける必要はなかったが、一応パットを入れたブラジャーを付け、ロングセーターにスリムパンツの上からコートを羽織った。
マフラーを巻き、できるだけ顔が見えないようにする。
ローズバレエ団に来るとその、エントランスに人だかりができていた。
合格発表が張り出されているようで、涙を流す者がそこかしこにいた。
アレックスは事務員から荷物を受け取ると、その場を離れようとした。
扉に手をかけた時、後ろから声を掛けられる。
「合格発表は見ないのですか?」
振り返ると、ジェイドがいた。
「……だって、どうせだめですもの」
「例えだめでも一生懸命やったのなら、見るべきだと思います!」
「……貴方の言う通りね」
そう言うと、アレックスは張り出している紙を見に行った。
背の高いアレックスは人の後ろからでも、それを見ることができた。
頭と頭の隙間から、番号を見る。
「17、32……78、85、……間が見えないわ」
前の人の頭が邪魔をして、1つの番号だけ見えなかった。
『もしかしたら……いえ、だめよ。期待しちゃ……』
と思った時、前の人が動き、番号が見えた。
「……えっ?」
アレックスは我が目を疑った。
「さ……37……番?」
眼鏡を取り、何度目を擦っても、数字は37だ。
「よかったですね」
気がつけば横にいたジェイドが、アレックスに言った。
「ええ、……ええ!」
喜びの涙があふれて来た。
「ジェイド、ありがとう!」
そう言うとアレックスは彼女を抱きしめた。
「私は審査員じゃありませんよ」
「だって……貴女がああ言ってくれなかったら、私は午後の便でイギリスに帰っちゃうところだったわ。ありがとう!」
アレックスは天井に頭がつくほど、何度も何度も飛び跳ねながら喜んだ。
その光景を、エントランスの端から見つめる1人の男がいた。
アレックスを見つめるルシガ・タカトウの瞳は、今までこのスタジオ内で見せたことのない、優しさに溢れていた。
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