ホテルの狭いロビーで、アド・ラルフの姿を借りたイザード・ヤーソンは苛立っていた。
チェックアウトをしようとフロントでカードを出したら、どういう訳か手持ちのカードが二枚とも通らないのだ。
「少々お待ちください」とホテルマンに言われ、ロビーの椅子にアミュレと並んで座ったが、待たされている五分が一時間に感じるほど焦っていた。
チャックイン時に通ったカードが、使えないのはどう考えてもおかしい。
しかし強行突破をすれば警察が呼ばれ、空港に着く前に捕まってしまうだろう。
『魔術でホテルマンに暗示をかけ、脱出するしかない』
そう彼が思い、立ち上がった時、ロビーのドアが開いた。
入って来たのは長身の男が二人。
そのうちの一人は、もっとも見たくない男……ルシガだった。
追手が来るとしたら、この男以外は考えられなかった。
しかし、その予想以上の速さに、イザード・ヤーソンは我を失った。
彼の計算では、ルシガが事の真相にいたる頃には、飛行機飛行機に乗り出発しているはずだった。
アレックスの存在が、その計算を狂わせたことを知らぬ彼は、動揺を隠せなかった。
ルシガが相手ではアド・ラルフの仮の姿など、何の役にも立たない。
イザード・ヤーソンは立ち上がると、ルシガに対面した。
「出国はさせない!」
ルシガの言葉に、彼は奥歯を強く噛んだ。
自分の考えていることは、全てお見通しと言うわけだ。
「例えヴィラムに行けたとしても、どうなると言う?」
「うるさい!」
イザード・ヤーソンはアミュレを後ろに下がらせると、両手を天に掲げた。
彼の最大の武器はその両手の先から繰り出される、風の刃である。
次々と鋭い刃をルシガめがけて、投げ打つ。
しかしルシガは、軽々とその刃を片手で払いのけた。
魔力の差は歴然としていた。
だがイザード・ヤーソンは不敵な笑みを浮かべると、こう言い放った。
「絶対お前には捕まらない。お前みたいに何の苦労も知らん奴にはな!」
そして目に見えぬ速さで、再び風の刃を繰り出して行く。
今度はルシガだけではなく、アレックスやホテルマンに向けて四方八方に放っていった。
風の刃は太い柱やフロントデスクに隠れたとしても、回り込んで人を襲う。
こうなるとルシガは、アレックスとホテルマン三人、そして自分自身をかばうので手いっぱいになった。
しかしイザード・ヤーソンは知っていた。
決定的な技をルシガが使えば、自分などひとたまりもないことを……。
「何故だ、ルシガ。何故、攻めて来ない?」
「……お前を生きたまま、魔法法廷に連れて行く」
「情けか? 無駄だ! 死にかけの親に会うような違反なら、禁固刑の例外もあるだろうが……性欲に負けた魔導師など、死しかありえない」
「……」
「捕まえるくらいなら、殺せ! しかし俺一人では死なんぞ! みんな道連れにしてやる!」
彼の理性のたがは、既に外れていた。
際限もなく繰り出される刃がルシガの頬をかすめめ、細い紅い線が描かれた。
死に物狂いで繰り出される技から、その場にいる全員を守るのはルシガにも限界が来ていた。
イザード・ヤーソンを殺さなければ、被害者がでるだろう。
ルシガが心を決めたとき、銃声が二発鳴り響いた。
弾はイザード・ヤーソンの両腕の根元を、正確に貫いていた。
イザード・ヤーソンの眼に、ルシガの背後にいたアレックスの姿が映った。
その手には銃が構えられており、銃口からは白い煙が立ち上っていた。
「まさか……銃なんかにやられるとは……」
イザード・ヤーソンはだらりと腕を落とし、膝を折って座り込んだ。
そしてその姿は逞しいアド・ラルフの姿から、痩せた中年の彼本来の姿に戻っていった。
彼が後ろを振り返ると、そこにはアミュレの怯えた姿があった。
「アミュレ……すまない」
アミュレは真っ青な顔で、彼を見ている。
「アミュレ……愛している……お前を守ってやりたかった」
「ユレイク、ヴィラムに行くって言ったじゃない?」
「もう……行けそうにない……」
「嘘つき! ずっと守ってくれるって、言ったじゃない?」
「……アミュレ……愛してる……」
「愛って何? お前なんか……お前なんか知らない! 守ってくれないなら、いらない!」
「アミュレ……」
「僕……犯罪者になるの? アド・ラルフを殺したのはこの人だよ。僕は何も知らない!」
アミュレは、ルシガとアレックスに、必死になって訴えかける。
「アミュレ……」
イザード・ヤーソンの目から、一筋の涙が流れた。
「アミュレ……もう一度ユレイクと……ユレイクと呼んでくれ」
「お前なんか、知らない! ……ユレイクなんて、知らない!」
イザード・ヤーソンの顔が、一瞬くしゃりと笑っっているようにも、泣いているようにもに見えたた直後……
彼は残った力で右手を動かし、人差し指から出した小さな風の刃でその喉をかき切った。
一瞬にしてその切り口から、赤い血が飛び散った。
「いやー! ユレイク! いやーっ!」
驚き泣き叫ぶアミュレ声は、もうイザード・ヤーソンには聞こえない。
そう魔導師名イザード・ヤーソンこと、修道院に捨てられた孤児のユレイクには。
事件が終わると、まるでそれを見ていたかのように、メイサンから連絡が入った。
ルシガとアレックスは呼び出され、イザード・ヤーソンの亡骸とともに、アミュレを連れて魔法省に向かった。
深夜の、魔法省3階の広い廊下。
不自然に窓際に並べられた椅子に、ルシガとアレックスは座っていた。
アミュレはメイサンの執務室に入っている。
「あの子はどうなるの?」
アレックスがルシガに訊ねた。
「記憶を消されて、孤児院へ入れられるだろうな」
「記憶って……全て?」
「ああ……」
「……その方がいいのよね……きっと」
「……」
「イザード・ヤーソンが可哀そう?」
「……」
「あの環境で生きながらえたのよ。生き抜くことだけが、あの子の全てだったのよ」
「同情的だな」
アレックスは小さくため息をついて、言う。
「大人の都合で、苦痛も生死も決まる世界で生きていたのよ。愛なんて考える余裕なんてなかったのよ、きっと。イザード・ヤーソンには可哀想だけど、自分を救ってくれて、守ってくれる人なら……誰でも良かったのかもしれないわ」
「残酷だな」
「……そうさせたのは、大人よ」
二人がそう話していると、アミュレが執務室からメイサンの秘書に連れられて出て来た。
アミュレはルシガやアレックスに目も止めず、歩いて行く。
記憶を消されているのは明らかだった。
「アレックス・バジル特別捜査官。どうぞ」
もう一人の秘書が、アレックスを呼んだ。
「ねえ、アタシも記憶を消されるの?」
「それはないな。メイサンは、きっと何か条件を出してくるだろう。イザード・ヤーソンの件は、内密に処分したいだろうからな」
「強請られたりするのかしら?」
「お前が強請れる立場だ」
「そう。じゃあ、うんと我儘を言ってあげようっと」
そう言って、アレックスは部屋に入って行った。
誰もいなくなった暗い廊下で、ルシガはぼんやり考えていた。
イザード・ヤーソンは果たして幸せだったのか? それとも後悔していたのか?
最後にアミュレを道連れにすることもできただろうに、彼は何故そうしなかったのか?
憎んではいなかったのか? 愛しきって逝ってしまったのか?
自分だったらどうだろうと、考えてみる。
以前の自分は、一夜の恋で女を抱き、欲望を満たすことで満足していた。
後腐れのない恋が自分には一番似合うと思っていたが、それは嫉妬によりプライドが傷くのが怖かっただけかもしれない。
愛を期待しなければ、裏切られることもない。
自分が人一倍独占欲が強いのことを、ルシガ自身が一番知っていた。
だがアレックスと関係をもってから、全てが変わった。
愛しいと思う気持ち、大切にしたいと思う気持ちを、初めて知った気がする。
深みにはまる怖さを感じつつも、愛さずにはいられなかった。
そして愛情を受け取ることの、暖かさも知った。
もしそれらを全てを否定されたら・・・自分はどうなるのだろう?
そう考えたら、イザード・ヤーソンの気持ちが、少しわかるような気がした。
「どうしたの? ぼんやりして」
いつの間にか執務室から出てきたアレックスが、ルシガに声をかけてきた。
「早かったな」
「まあね。商談成立。さあ、次は貴方の番よ」
「遅くなるかもしれんから、先に帰ってくれ」
「待っとくわ。……こんな日に、一人でいたいなんて言わないでね」
「……わかった」
執務室に入る前に振り返ると、アレックスが長い脚を組んで椅子に座り、微笑んでいた。
その後ろの窓には、しんしんと降り始めた雪が白く輝いて見えた。
寒いはずなのに、なぜか暖かく感じる……この気持ちが愛なのだとルシガは思った。
不確かなものかもしれないが、今確かにそれはここにあると。
了
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