その夜、黒い人影がブグロー邸の屋根に舞った。
厳重な警備をかいくぐり屋敷に侵入した人影は、目的の場所へ足を進めた。
懐中から卵形の香炉を取り出すと、己の口と鼻を濡れたハンカチで覆い、眠り薬の入った香を焚く。
おもしろいようにパタリパタリと、部屋を警護する警備兵が倒れていった。
人影は扉に近づくと香炉を下に置き、扇で床の隙間から香を仰ぎ入れた。
頃合いを見て鍵を開け中に入ると、警備兵が折り重なるように倒れている。
怪盗が金庫に近づこうと一歩足を踏み出した瞬間――。
四方の天井から、鉄格子が轟音と共に落ちてきた。
ガッシャーン。ガシャーン。ガシャーン。ガシャーン。
逃げる間もなく、怪盗は鉄格子の折に囚われてしまった。
「しまった……!」
人影は鉄格子に手をかけ揺すったが、ビクともしない。
「ぐふふふ……怪盗ヴァイオレットを捕まえたぞ!」
不気味な笑い声と共に扉の影から現れたのは、ヒキガエルのようなでっぷりとした小男、ブグロー男爵だった。
「お前達、起き上がってその男を取り押さえるのだ!」
この屋敷の主である男爵の声に、眠り込んでいるように見えた警備兵達は立ち上がると、スラリと剣を抜きその切っ先を怪盗に向けた。
「マスクを外すのだ!」
男爵の声に、マスクに手をかけてきた警備兵の手を振り払い、怪盗は自らそのマスクを外した。
その素顔を見た男爵の瞳に、好色な光が走る。
「ほお……なんと言う美しさだ……ぐふふふ……これは楽しみだ。その躰に今まで奪った財宝のありかを、たっぷり聞かせてもらおうか。皆の者、そいつを地下牢に連れて行くのだ!」
怪盗はギリリと唇を噛み男爵を睨み付けたが、警備兵から鳩尾に拳を入れられ、その場に倒れ込んだ。
翌日の昼前、アレックスの屋敷に叔父の馬車が到着した。
田舎の領地に逃げていた叔父が、帰ってきたのだ。
痩せて背が高く爬虫類のような顔をした叔父は、長旅の疲れも見せず、すこぶる上機嫌だった。
荷物を降ろす支持をすると、迎えに出てきたアレックスの背を押し、執務室に連れ込む。
鍵をかけるなり、彼が今までに見せたことのないような笑顔を見せ、大声で叫んだ。
「怪盗ヴァイオレットが捕まったのだ!」
いきなりの言葉にアレックスはふらつき、マントルピースの上に飾ってあった花瓶を倒して割ってしまった。
その物音に使用人が駆けつけてきたが、叔父は「後でいい」と人払いをした。
「怪盗ヴァイオレットが……捕まったって……本当ですか?」
「ああ、戻ってくる前に、ブグロー男爵の屋敷に寄ったのだ。そこで奴を見てきた」
「見た?」
「地下牢に繋がれて、拷問を受けていたよ。いい気味だな。男爵は財宝のありかを聞き出してそれを手に入れるつもりらしい」
アレックスは己の顔から血の気が引き、指先が冷たくなるのを感じた。
「……地下牢があるのですか?」
「ああ、男爵の書斎の床に仕掛けがあってな、そこから地下に繋ぐ階段がある」
「男爵に頼めば会わせてもらえるでしょうか?」
「男爵は今夜は用事があるらしいから、明日にでも会いに行くがいい。まあ……それまで生きていればの話しだがな。クックック……」
――男爵は今夜いない……。
アレックスは心の中で何度も呟いた。
ルシガを救うには今夜しかないのだ。
その夜アレックスは気分が優れぬと、夕食も取らずに寝室へ入った。
ヴァイオリンケースの中身を取り出し、小型の斧を布で巻いてその中に入れる。
乗馬服に着替え、ヴァイオリンケースを手に持つと、用意していたロープを伝い、2階から下へ降りた。
昼間に小遣いを渡し、馬を用意を頼んだ小間使いとの待ち合わせ場所まで、音を立てずに走っていく。
裏門は、酒に酔った門番がいびきを立てて寝ていた。
門を出ると小間使いが「旦那様」と、小さな声で声をかけてきた。
「門番を眠らせてくれたのはお前か?」
「はい旦那様。あの門番は酒が好きなのでワインを2本ほど差し入れしました」
「賢い子だ。助かった。ありがとう」
そしてアレックスはふと何かを考えるように眉をひそめると、金貨が入った小さな革袋を小間使いに渡した。
その重みに小間使いは驚き、アレックスに返そうとする。
「お駄賃ならもういただいております」
「私はもしかしたら帰って来れぬかもしれない」
「……そんな!」
「もし明け方までに私が戻らなかったら、その金を持ち屋敷を出るといい。叔父上にお前が責められては可哀想だ」
「しかし旦那様……」
「先に言わなくてすまなかった」
アレックスはそう言うと馬に跨がり、走り始めた。
「旦那様、どうぞご無事で~」
小間使いの声は、駆けだした蹄の音にかき消されていった。
ブグロー男爵邸に着く頃には、馬の息は酷く上がっていた。
門番に来訪を告げると、執事が門まで出てきた。
「これはまた、ブランシェール伯爵様。このような時間にお一人で見えられるとは、いかがされましたので?」
「男爵に呼ばれて来たのだ」
始めてつく嘘らしい嘘に、アレックスの心臓は跳ねた。
「……失礼ながら、そのようなことは伺ってはおりませんが……」
「出先から使いの者をよこし、今夜ここに来るように言われたのだ。私のヴァイオリンを聞かれたいそうだ。急だったので馬車を用意する時間がなかった」
「それは失礼を。どうぞお入りくださいませ」
いかにも世間知らずのアレックスが、嘘をついて屋敷に侵入しようなどとは、執事は考えもしなかったに違いない。
邸内に入ると執事は当然のように「いつものように書斎でお待ちになりますか?」 と、訊ねた。
願ってもない申し出だ。
「……ああ」
答えるアレックスの顔色が緊張で真っ青なのを、蝋燭の紅い光が隠してくれていた。
「ではこちらでお待ちを。ご用の際はこちらのベルでお呼びくださいませ」
そう言うと 執事は部屋を出て行った。
それと同時に、アレックスは行動を起こし始めた。
カーテンを閉め、叔父が言っていた地下への隠し扉を探す。
床に跪き隅々まで見るが、不自然な切れ目は見当たらなかった。
ただ大理石でできた、裸婦の彫像の下に引かれたラグが気になった。
捲ってみると、地下への入り口のような物が見えた。
――この彫像を動かせるだろうか……。
いかにも重そうに見えた像は大理石ではなく、アラバスターで、しかも中抜きされており、一人で動かすことが出来た。
音を立てぬように慎重に動かし、ラグをのけると、観音開きの扉があった。
扉には錠前がかけられており、それにヴァイオリンケースに入れ持ってきた斧を、出来るだけ音を立てぬように振り下ろした。
ゴンゴンと鈍い音が立つ度に、鼓動が激しく鳴った。
カンッ。コロコロコロ……。
錠前が外れ、転がるのを伸ばした手で受け止める。
音はどのぐらい外に響いただろうか?
床に耳を突け確認するが、足音が近づいてくる気配はない。
扉の取っ手に手をかけ、ギギギィ……と軋ませながら開いた。
眼下には石作りの階段が地下へと続いている。
――踏み出したらもう後には戻れない……。
ゴクリと渇いた喉が鳴った。
――それでもかまわない。
アレックスは燭台を手にすると、斧を持ったまま石段を降りていった。
地下に続く階段は長く、しとしとと水滴が落ちてくる。
ぬるりと滑りそうな階段を注意深く降りきると、長い廊下が続いていた。
右側はくり抜かれた石の壁で、左側には鉄格子がはめられた牢が連なっていた。
真っ暗な牢の一つ一つを蝋燭の明かりで照らすと、目を覆いたくなるような光景があった。
鎖に繋がれたまま白骨になった者や、四肢が切り刻まれた者、それらの間をドブネズミがちょろちょろと行き交う。
悪臭にハンカチで鼻を押さえ、アレックスは前に進むと、一番奥の牢に蝋燭の明かりが、ぼんやりと灯されているのが見えた。
心臓が飛び出してしまうのではないかと思うほど跳ねる中、駆け足で牢に近づくと、そこには白くしなやかな筋肉を持った裸体が、両手足を四方の壁に繋がれた頑丈な鎖でX字に磔られていた。
明かりで照らすと、背中に鞭で打たれ裂けた肉が見えていた。
薄暗い中、頭を前に垂らしているので顔は確認できないが、ルシガに間違いはないだろう。
後孔は陵辱され、幾すじもの血の痕が太股にかけて流れ固まっている。
「……ルシガ……」
アレックスは牢に駆け寄り、愛しい人の名を呼んだ。
斧で牢屋の錠前を弾き飛ばし、中に入り、その躰にしがみつく。
温もりはあるが、意識を失っているようでぐったりとしている。
「ルシガ……ルシガ……今、助けるから……」
アレックスは鉄の鎖を断ち切ろうと、斧を振り上げる。
その時、急に躰を後ろから誰かに羽交い締めにされ、斧を持つ手を大きく力強い手に握られた。
「離せ!」
アレックスは全身で抵抗したが、耳元で囁かれた声にその力を失った。
「思ったより、力があるな、アレックス」
低く艶のある声に、アレックスが振り返ると、そこにはマスクを付けた怪盗ヴァイオレットの姿があった。
「……ルシガ? どうして?」
男は返事はせず片頬を上げて笑った。
「その斧で鎖を切るのは無理だ。蝋燭の光で手元を照らしてくれ、手錠と足枷の鍵を外す」
ルシガが手際よく鍵を外すと、男がグラリと倒れ込んできた。
蝋燭の明かりに銀色の髪が照らし出される。
「この人は……!」
アレックスがルシガと思い 助けようとしていたのは、あのラヴィー公爵夫人のサロンで出会った銀髪の麗人だった。
ルシガがその頬を叩くと、男は薄く目を開けた。
「大丈夫か?」
「ああ……ヘマをした」
「歩けるか?」
「支えてくれたら何とか……」
ルシガは黒いマントを脱ぎ、男に掛けるとその肩を抱きかかえ、アレックスを振り返った。
「どうする?」
「……」
「ついてくるか?」
「……」
「私を信じろ」
その言葉に返事をせず、アレックスは男のもう片方の肩を抱えた。
――僕は何をしようとしているんだ?
心の片隅にいる冷静な自分が問いかけてくる。
しかし躰はルシガに合わせ、男を支えながら歩き出していた。
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